今月は、ひょんなきっかけで今までほとんどやったことのない「ボランティア」なるものに、立て続けに2回も参加した。一回は、参加しているWeb広告研究会主催の、東北セミナー&ボランティアという企画(https://www.wab.ne.jp/wab_sites/contents/1381)。石巻の海辺で、復興イベントに使う空き地の整備というタスクに任命され、15人ほどで草むしりと瓦礫拾いをした。もう一つは昨日になるが、会社が継続して参加しているKIDSプログラム(http://www.kids-npo.com/)という、障害のあるお子さんをディズニーランドに招待し、一日一緒に遊ぶことで親御さんに束の間の自分の時間を持ってもらおうという主旨の活動だ。もう20年も続いているそうで、会社からも数年に渉って継続参加しているが、自分は初参加。KIDSというのは、Knowing` is Doing Something (やってみればわかる)の略だそうだ。いずれも与えられた機会に乗っただけだが、この二つの経験ともに、正に自分にとっては今までにない感覚を得るものになった。
一つ目の石巻は、写真を撮るのがはばかられるほど、本当にすさまじい光景が広がっていた。テレビで観たことがあると言えばそうなのだが、現実の光景として眼前に広がると、その衝撃は想像以上だ。二つ目のKIDSは、自閉症の高校生の男の子が自分の担当になった。正直ちょっと緊張していたのだが、一緒に担当になった経験のある人自然な接し方に触れたこともあり、思いの外スムースで楽しい一日だった。
今までに全く縁遠かったこうした経験で、もっとも強く感じたのは、当たり前すぎるけれどもあまりにも自分ができることが「小さい」ということだ。一日二日やったくらいでこんな事を言うのもはばかられるし、NPOなどでかなりの時間をコミットしている方々には鼻で笑われそうだw。しかし自分が言いたいのは、自らの微力を痛感したとか、非力さを感じた、無力感に苛まれたということでは無い。何と言ったらいいのか、まだうまく整理が付いていないのだが、「人間ってそう言う生物なんだな」ということだ。「そういう」というのは、自分たちが生きていく社会という環境をよってたかって力を合わせながら築いていくということ。何かしらそう言う力の集結が必要な場所を察知して、自然とそこに大勢が集まって望まれることを行っていくということだ。イメージとしては蟻の集団的な、もっというと血液というか白血球のような・・・。そう言う観点で捉えると、むしろそういう活動自体が「ボランティア」という特別な呼び名をつけられ、特別な感覚で捉えられている事自体のほうが、違和感が出てくる。本来、人間はそう言う性質を備えた生物なんだ。そういうことを実感として感じさせてもらえた体験だった。
少し昔の人たちは、そうしないと生きていけなかったと言うこともあるだろうが、自分の生活習慣の中に、こうした活動を自然に組み込んでいたに違いない。ボランティアという言葉自体、最近できたんじゃないだろうか?現代の社会がそういう性質を薄れさせているとすれば、それはやはり変えていって、元に戻さなければならないんだろうな・・・。
そんなことを漠然と考えるきっかけをもらった。まさに「Knowing` is Doing Something」。なんでもやってみるものだ。
Redeyes
二回のボランティア
「ステキな金縛り」観ました!
少し前になりますが、観ました。三谷幸喜最新作の「ステキな金縛り」。
いやー。面白かったですw。劇場であんなに声を出して笑ったのは、もしかしたら始めてかも知れません。
映画やドラマはこれまでほぼ全部観てきた三谷作品の中でも、1,2を争うかなと思ったくらい。
劇場的な演出はいつものままに、出演者の個性を全て三谷流に完璧に演出し、計算し尽くされたストーリー展開の完成度はすごみすら感じます。
実は一つ前の「ザ・マジックアワー」はやや自分にとっては残念な感じでした。作品の完成度もそうでしたが、宣伝でTVに出まくってはしゃぎまくる様子も、ちょっと興ざめでした。おそらくそう言う反響もあったのでしょう。今回はかなり計算された抑えめのPR活動で、イイ感じにバズが広まっている感じがします。
戦略的なPRの一つ、NHK「プロフェッショナル~仕事の流儀~」では、三谷さんのこれまでにないシリアスな側面にフォーカスを当てた非常に興味深い物でした。その中で、彼の仕事のスタンスとして「常に制約を設けてそれを乗り越えることをエネルギーにする」というものがありましたが、本人が番組の中でも自虐的に語っていた自らの離婚という状況も、なにかしらプラスに働いたのかもしれません・・・。
彼の作品のおもしろさは「完璧に演出された世界観」をベースに構築されます。出演している俳優陣も自分の個性を引き出しながら細かく演出されるそのシチュエーションそのものを楽しんでいるような感じすらします。その中で、やはり群を抜いているのは西田敏行さんでしょうね。本当にスゴイ俳優だなあと、改めて感じさせられました。この映画のおもしろさの半分以上は、西田さんによって産み出されているような気すらします。三谷さんもそれが分かっていて、マジックアワーで出し切れなかったそのおもしろさを、存分に引き出しているからこそ、それより格段に面白いのかもしれません。
ちなみに、これまでの三谷作品の中でかなり面白いなぁと思っていた作品に「笑いの大学」があります。ストーリーの面白さは自分の中では未だにNo1なのですが、言っちゃ悪いけど主演の稲垣吾郎がちょっとなぁ・・・w。やっぱり演出と演者両方のバランスがきっちり取れるのが重要なんですね・・・。
この作品はここ数週間、動員一位のようですので、コクリコ坂と競って、今年の邦画No1になるかもしれませんね。個人的には、こちらを推したいですw。
Redeyes
人生の転機?
何と、3ヶ月ぶりの投稿!月日が経つのは本当に早いものです。(^^;)
こんなに間があいてしまったのは、FacebookやTwitterで細かくつぶやくとそれで満足してしまって・・・という言い訳もw
実はこの間、非常に大きな出来事が起こり、それはたぶん自分の人生にとって大きな転機になりうるくらいの大事だったのですが、
それに時間を割いていたと言うことも事実としてあります。
その証拠?の一端とそして、こんなイベントの審査員というなかなか無いチャンスをいただいたりしています。
【Startup Weekend Tokyo NOV 18-20】 http://tokyo.startupweekend.org/
非常に楽しみです。
この間何が起こったかは、また追って?ご報告していきますw。
Redeyes
「コクリコ坂から」見ました。
久々にジブリ作品をタイムリーに劇場で見ることができました。
どんな話か、実は全く知らずに行ったので、ある意味フラットに鑑賞できたと思います。
結論から言うと、僕にとってはとてもいい作品だと思えました。
息子さんとのほぼ共作ということで、見るに耐えなかった「ゲド戦記」を思い出してしまいましたが、ジブリ作品の中では、最も大人へのメッセージ性が強い、映画らしい作品だと思いました。
内容はとてもシンプルで、ストーリー展開も適度に考えさせる、追いやすいものでした。(敢えて詳細は割愛します)
こちらのインタビューを見ると、宮崎駿さんご自身はこの作品をは「夢を持たなくなった若者へのメッセージ」と位置付けているようです。
44歳になった自分が「若者かどうか」wはともかく、僕にとってはそういうメッセージはあまり強く受け取れませんでした。
僕が感じたのはむしろ、「親からの子供への愛情」です。命をつなぐことの大切さ、これは宮崎作品の普遍のテーマですが、今回の作品には特に強くそれを感じました。
うがった見方かも知れませんが、天才の父を持ち自分の存在意義をなかなか見いだせないで悩むご自身の息子へ、この作品を一緒に作ることを通じて「生きていることだけで、どれほど素晴らしいことか。それ以上の存在意義などあろうか?」・・・ということを伝えたかったのではとも思えました。
命をつなぐこと、世代を超えたメッセージを伝えて、世の中を少しでも良くしていこうという意志を持つこと、そのこと自体を日々の生活の中で常に少しでも意識すること・・・そんなことの大切さを改めて心にしみこませてもらえる作品でした。
敢えて不満点を言えば二つ。
一つは、主人公の声優をやられた長澤まさみさん。ちょっとつらかったです。何故彼女じゃなきゃいけないんでしょうねw。
もう一つは、音楽。名画には耳に残るメロディーやリフレインが必須だと思います。それが残念ながら無かったなと。主題歌は悪くないなと思ったんですけど、それだけに残念でした。映画ジブリ作品の音楽はやっぱり久石穣さんじゃなきゃとw。彼の偉大さを改めて感じさせられてしまいました。
ともあれ、まだ見ていない方には強くお勧めします。
Redeyes
「日本」って誰が呼んだか?
海外でのこの震災の報道のされ方で、「こんな事態にもかかわらず日本人は驚くほど冷静で礼儀正しい」そういう”褒められ方”は良く耳にする。
このたぐいのニュースを見ながら、ふと思ったことがある。そもそも「日本」って誰がそう呼び始めたんだろう?「日」の「本」(もと)なので、やっぱり海外、恐らく中国だろうが、にいた人が日が昇る東の空を指さして、「あちらに不思議な国があるらしい、そこには幸せそうな人が住んでいるらしい・・・」という意味を込めて「日本」と呼んだんだろう。なぜなら、遠くからじゃないと、日が昇る下の方のという認識ができないからだ。
そこには、中国とは全く違う、森林豊かな土壌が広がっていて、海産物も抱負だしなんか豊かそうだぞ・・・と。そんな不思議な感覚が「日本」という呼び名に込められていたのかも知れない。
しかしそこに住んでいた僕らの祖先は、度重なる自然災害を経験し、自然への畏敬の念を身につけると共に災害に直面した後、その時代なりの生活を取り戻す術として、一致団結して、自己の欲求を抑えてコミュニティに尽くしていたに違いない。
つまり、「震災なのに冷静で礼儀正しい」のではなく、「震災に何度もあっている記憶がDNAに刻まれているからこそ、冷静で礼儀正しい」だったのだろう。
そう言う祖先を持ち、そのDNAを受け継ぐ僕らは、選民思想に偏るつもりもないが、やはり誇りと尊敬と使命感を持って、世界にこの感覚を広めていくことが運命づけられているんじゃないだろうか・・・。
そんな風にも思えてならない。
Redeyes
親
この震災が起こって、自分が「親」であることを意識することが本当に多くなった。
いままでそうでもなかったという訳では、決してないのだが、心ののどこかで「もしかしたら、自分達にも”死”の危険が押し寄せてくるかも・・」と本能的に感じると、生物として本能的にそういう感情が湧いてくるのかも知れない。
ニュースで見て、未だに目に焼き付いて思い出すと胸が苦しくなるシーンがある。
小学生くらいの女の子が、瓦礫の山に向かって「おかあさーん」と泣きじゃくって大声で叫んでいる様子だ。
こんな昔のドラマや映画のようなシーンが、現実に起こってしまうことへの驚きもあるが、もう一つ別の意味で、こみ上げてきた思いもある。
それは、自分がそれと同じ状況になったら・・・ということだ。つまり、親としての自分が津波に飲まれて、あの世への入り口にさしかかったそのとき我が子が生き延びたと知ったら、それはおそらく一生の中でもっともうれしい出来事になるだろう。小躍りして、うれし涙で泣きじゃくりながら、旅立てるに違いない。お母さんと叫ぶ彼女には、そんな気持ちは、勿論全く想像できないだろう。でも、無くなった親御さんは、恐らく、間違いなく、そういう心境だと思う。
勿論、お子さんと共に、もっと長く幸せな人生を過ごしたかったに違いない。しかし、それを超えて余りある喜びを感じているはずだ。「我が子が生き残った」ことに。
逆にお子さんを亡くされた親御さんの心境は、とても想像ができない。想像するだけで胸が張り裂けそうで、とてもとても耐えられない。
さきほどの女の子だけでなく、被災して親を亡くしたお子さん皆さんに、もし何か伝えられるとしたらそんな親御さんの気持ちをいつか本当に理解できるようになるために、いつか皆さんにも「親」になって欲しいと強く思う。いつか自身も「親」になって、そのときの気持ちが想像できたら、命をつなぐことができた素晴らしさと、親御さんの喜びを心の底から理解できるだろうから・・・。
そんな気持ちを込めて、ほんの些少ながら、こちらに義援金を送らせて頂いた。
https://ashinaga.donation.fm/index2.html
本当に、本当に、少しのことしかできないのがもどかしいのだけれど…。
Before After
3・11。あの日から、およそ80日が経った。直接的に大きな被害を受けていない我々の日常は、ともするとまるで元に戻ったようなきになることもある。日常に埋もれると言うことはそう言うことかも知れない。
しかし、その実は、やはり世界がすっかり変わってしまった。
毎日、被災地の様子や、それと格闘する人々がニュースで流れる。
自分の胸の中に何か黒くて重い丸い玉のようなものが埋め込まれて、少しづつ大きくなっているようなそんな気がしてならない。
無力感だけでもなく、悲しみという言葉でも表現しがたい。何とも言えない気持ちが全てのベースとなったような気がする。
それでも日々の暮らしはあるし、仕事もある。笑って過ごす時間ももちろんある。
大部分の時間は、まるで以前と同じような暮らしなのだ。
この何とも言えない二重化した気持ちと向き合って行かなければならないのだがまだまだ整理し切れていない。
このブログに書くこともそれと向き合って整理していく作業の一貫になるのかも知れない。
いずれにせよ、かつての単純な幸せに溢れた日々とは全く違った世界になった。
いや実は、もともと世界はそうだったのに自分自身がそれに気付いていなかっただけなのかも知れないが・・・。
Redeyes
映画評:話題の「ソーシャルネットワーク」を観て・・・
先週末に、話題の「ソーシャルネットワーク」を観てきた。こういう仕事をしているので、身の周りはリアルでも、それこそソーシャルの繋がりでも、それこそ公開前から話題沸騰だ。それこそ、コア・オーディエンスをうまく捉えた素晴らしいマーケティングだなと思いつつ・・・それでも概ね好意的な評判を耳にしていたので、そこそこの期待を胸に、いきつけの新宿バルト9の最終上映回に駆け込んだ。
・・・で、結論から言うと、正直言って、映画としてのインパクトはそれほどでも無かったかなw。決してアマノジャクを決め込むつもりもない。偉そうにかっこつけるつもりもさらさら無い。勿論1800円出して損した気分にもなっていない、そこそこの映画だとは思うが、とはいえゴールデングローブ賞を4部門を受賞し、アカデミー賞候補になるほどスゴイかというと、それはちょっと・・・というのが率直な感想だ。
そこまで偉そうに言った手前、じゃあどこがというと、メインテーマである「天才とその周囲の人間が感じる嫉妬や劣等感」を描くには、その場面や人物像の描き方が中途半端だったことが上げられる。CFOのエドゥアルドの心境の変化や、それを裏切るザッカーバーグの残酷なまでの無邪気さが、あまりにもあっさりしていた感じが否めないのだ。同じようなテーマを掲げる名画は少なくない。私の大好きな映画の一つで、天才モーツアルトへのサリエリの葛藤を描いた「アマデウス」や、それこそ金持ちへの嫉妬心から完全犯罪を目指す「太陽がいっぱい」などなど。その心理描写はいずれも鬼気迫るものがあり、人間の業の深さや、理不尽さ、残酷さに息をのむ。そう言ったたぐいの名画には枚挙に暇がないのだ。つまりネットの新しいサービスというモチーフは極めて現代的ではあるが、人間の描き方としては、それほど斬新ではない。ある意味普遍的なテーマであるだけに、デビット・フィンチャー監督ならもっと・・・と思ってしまうのだ。もっと言えば、このテーマでこの素材なら、半年シリーズくらいのテレビドラマの方が良かったかも知れない。そうすれば、Facebookの技術や機能の進化の「華麗さ」「芸術性」までももっと描けたかもしれない。以前このブログでも書いたように、”箱と中身”(過去投稿→http://redeyes.jp/?p=49 )の齟齬が根本的な問題なのかも知れない。
とはいえ、この映画からは別の意味で大きな感慨を得たことも確かだ。それはやはり、一応同じ世界の端くれで仕事をする人間として受けたものに他ならない。
それは、彼らはやはり「創造者」というより「破壊者」なんだという確信だ。Yahoo!しかり、Googleしかり、最近のGrouponしかり。ネットの巨人は、そのほとんどが、何かを作り出すと言うより、世の中に厳然としてあった何かをあっという間に粉々に砕き散らして、それに依存して生きていたもの(企業)を容赦なく抹殺し、一般ユーザーにとって完全に平坦な”地平線”を提供するという点で共通している。それを改めてつくづく感じたのだ。ザッカーバーグは、正にそういう人物なのだと。。。
マイクロソフトやアップルは、やはり新しいものを「創造」していると言えるだろう。でもYahoo!くらいからだろうか、ネットの覇者はことごとく「破壊」がメインの”反物質”的存在がほとんどなのだ。これまでの世界を破壊し、全く新しい景色をもたらす。”創造的破壊”といういいいかたもあるが、ほとんど”創造”といえるものはない。勿論「良い悪い」や「善悪」で言っているわけではない。自分が携わっている世界の、最右翼のプレーヤーのインパクトのすさまじさを改めて思い知った。またそれを成し遂げる人たちは、決まって「天才的な無邪気さ」を持っている。そんな彼らに対し、その先に広がる世界への畏怖まじりの希望と同時に、自ら心の底からわき出てくる「嫉妬心」や「劣等感」を存分に味わわせてくれる作品である事には間違いない。
Redeyes, bitch!
ソーシャルが変える未来(1) ~別れの定義~
ソーシャルメディアの急速な拡大については、今更説明の必要はあるまい。「Facebookは日本で流行らない」とか「Twitterも流行の一つ」という議論に目を奪われているようでは、本質論から遠ざかってしまう。既にソーシャルメディア、SNSの拡大は、不可逆なムーヴメントとして、今後の人類の思考や行動に多大なる影響を与えて行くに違いない。
それがどんなものなのか、全体像を想像するのはそんなに容易ではない。いわゆる物事が根本的な変化を起こす「パラダイムシフト」の行方を実感させる想像をするのは難しいが、自分としてはそれを少しでも補完できる身近なテーマを取り上げてみたい。
まずは、いきなりかも知れないが、「別れ」に焦点を当ててみよう。
転職した同僚とTwitterやFacebookでつながりっぱなしで、離れた気がしない・・・そんな経験をしたことがある人は既に少なくないだろう。僕自身も、こういう業界にいるから余計かも知れないが、割と日常茶飯事だ。むしろ、ちょっと日常の出来事をやりとりしたりすると、同じ会社にいたときよりも近づけた感じがするくらいだ。すなわち、「別れた」気がまるでしない。元気でやっていることも日々感じられるし、更に活躍の場を得て成長している姿に触発されることもある。
こうしたことが日常的に起こってくると、我々の「別れ」の感覚にどう影響するだろうか?
学校でクラス替えがあったり、卒業したりしても、未来の子供達は、友達とソーシャルネットワークで繋がっていられるだろう。就職してからもそうだ。同期入社の同僚達とは、転職を繰り返している人の様子も、日常的に元気でやっていたり悩んでいたりする様子も手に取るように分かる可能性も、大いにあるだろう。単純に言えば、別れることのデメリット—-寂しさや、喪失感、その人との繋がりを失う具体的な損失などはかなりカバーされるだろう。何か相談したいことがあればいつでも相談できるし、例え距離が離れていたとしてもその人の存在を感じられるだけで大きいこともある。
一方で杞憂かもしれないが、僕がやや心配になるのは、逆に「出会いの貴重さ」を実感できなくなるのではないかということだ。年寄り臭い感覚だと揶揄されるかも知れないが、「一期一会」のありがたさや、貴重さは、「別れ」があってこそではないだろうか?
自分の意図とは全く別にして、訪れる「別れ」。それが男女間であっても、友人であっても、その寂しさや悲しさに心を揺らせる経験が合ってこそ、貴重な出会いへの感謝の気持ちが芽生えるのだろう。removeしないかぎり別れが訪れな世界になるとしたら、それは果たして幸せな世界なんだろうか・・・?一概に否定的な感覚で言うわけではないが、このことに思いを馳せると、別れに対する感覚や、それが定義する人生における意味付けは、変わらない方が良いとどうしても思ってしまう。
さらにその影響は「死」という永遠の別れにおいてもまた不可避なものになってくるような気がする。その話はまた次の機会に・・・w
Redeyes
映画評:見ちゃった!w 「SPACE BATTLESHIP ヤマト」
##この記事は、人によって若干「ネタバレ」に思える場合もあると思います。(実際はそんなにネタというほど複雑な映画じゃないのですがw)ですので、これから先入観なしで映画を楽しもうと思っている人は、読まないことをお勧めします。###
久々に、深夜一人映画鑑賞を決行。めざすは「SPACE BATTLESHIP ヤマト」w。つい「w」をつけてしまうのは、この映画を1800円払って見に行ってしまう気恥ずかしさの表れに違いない。しかし、これが思いの外楽しめてしまった!w (またwをつけてしまったw)
まず驚いたのは、宣伝通りのそのVFXのクオリティーの高さだ。ぱっと見そのへんのハリウッドSF映画とさほど見劣りしない。これはTwitterの#sbyamato (公式ハッシュタグ)で展開されるTweetにも同様の反応が多い。逆に言えば、技術の発展で、クオリティーの高いVSF制作が以前ほど難しくなくなったのかも知れない。いやいや、アカデミー賞制作会社ROBOTのクオリティーの高さの証明なのかも・・・。同じに日本人としては後者を強調したいところだ。
ストーリーは思った通りの粗さ、唐突さの連続w。しよくよく考えれば、原作だって当時そんなに緻密なストーリー展開だったわけではないことは容易に思い出される。そう考えれば、それほど違和感はない。逆に小気味のいい展開、無駄の少ないセリフ回しは、単純なストーリーの良い部分を浮き立たせて、見所のVFXを邪魔しない。
また恣意的にかどうかはともかく、原作と近い点、遠い点のバランスも良く、ほどよい刺激となって、これがまた楽しめる。遠い点(ギャップ)には、枚挙に暇がない。まずは古代進のキムタク。これは全くもって「HERO]の久利生検事と見まごうばかりの「キムタク」そのものw。艦隊の制服が一瞬ダウンジャケットに見えるくらいだ。ある意味、この人は常に期待通りの「キムタク」を貫くのがすばらしい。もっと驚いたのが森雪だ。映画が始まってすぐに、あろうことか古代進をすさまじい音を立ててグーで殴り倒すw。しかも戦闘機のエースパイロットという設定で、これには度肝を抜かれた。当初のキャスティングが沢尻エリカだったのもうなずける。このツンデレ度合いを演じられる人はそうはいないだろう。
一方で、原作に近づけようという努力がにじんでいる点も多い。まずは沖田艦長の山崎努。その不自然な髭が痛々しいほどキュートだ。肩に力の入りすぎたギバちゃんの真田さんは、声色をマネしようとするあまりいつもより半音ほど声がうわずっていて、見せ場のセリフも笑いをこらえるのに必死だった。しかし何といってもうれしいのは、波動砲の発射場面だ。そのプロセスに感じるワクワク感と、発射時の迫力。これこそ小学生時代に見た記憶に近いイメージだ。勿論、こんな精巧な、美しい描写だったわけではない。しかし、ここまでやってくれると、本当にその当時の感動がそのものが蘇る。これ以下だったら、相当がっかりしていただろう。極端に言えば、この映画の魅力の半分以上はこの「波動砲発射シーン」一点にあるのではないか。
無防備に、恥ずかしげもなくw、楽しんでしまった、この和製超B級映画「ヤマト」。12月の出だしは好調で、ハリーポッターを押さえて今のところ興行成績1位だそうだ。恐らく興業の成功だけではなく、DVD、BDもそれなりに売れるだろう。どのくらいの還元があるかは不明だが、TBSの業績にも少なからず貢献するのではないだろうか?
しかし、あえて冷静に考えると、実はこの楽しさのほとんどが、「懐かしさ」や「記憶」がなせる技なのに気付く。恐らく原作アニメの記憶が濃い35歳(くらい?)以上と、それ未満とでは、この映画への満足度には結構な格差があるのではないだろうか?平日の深夜にもかかわらず(満員とは言わないが)結構な人が集まっている所を見ると、うまくターゲティングされた映画あり、でそれはそれで良いと言えばそうだ。しかし、もう少し丁寧な人物描写やストーリー展開があれば、B級の上ではなく、A級の中くらいにれなたのではないか?それにはもう30分くらいの尺が必要かもしれない。観客がそれに耐えられるか?制作費は20億円+いくらになったのか?そんなリスクが取りうるのか・・・などは計り知れないが・・・。
またそれ以上に、なまじ成功すると良くない点もあるのではないかと色々心配も湧いてくる。この成功(まだ気が早いがw)が必ずしも日本の映画界に良い影響をもたらすのか?・・・大きなお世話だとは思うが、そんな疑念さえ湧いてくる。
それは、日本の財産であるマンガやアニメをある意味安易でもうまく「実写化」「VFX化」すれば、ある程度儲かってしまうという、「悪い成功事例」になってしまうかもしれないという懸念からだ。すでにアニメ原作の乱用は、邦画のみならず、ハリウッドにも広がっている。むしろそちらから逆伝染したと言ってもいいかも知れない。アトムしかり、ドラゴンボールしかり。少し前のDEATH・NOTEや、20世紀少年しかり、今後も近日公開にブッダやGANTSもそうだ。他にネタがないのかと叫びたくなるくらい、ネタの草刈り場になっている。これが果たして、次のクリエーターを育てる好循環に結びついているのか?今現時点では決してそれは「そうだ」と言えないだろう。しかし、この好循環を生み出さない限り、今の状況は「資源の浪費」にすぎない。
では、どうすべきか?
やはりこうした成功で得た資金を、次のクリエーターを育てる場につぎ込むべきだろう。具体的には、アイデアやストーリー自体のクオリティーが試される場を想像し、そこに才能ある若手を登用すべきだ。
僕は実はその機会が多いのは、テレビではないかと思っている。勿論、ネットもそういう場になっていく可能性はある。しかし、残念ながらネットにはまだそういうコンテンツに十分なお金を払えるほどのビジネスモデルが未確立だ。YouTUBEで垂れ流しても、大したお金にならないのだ。
しかしテレビには未だに多くのお金が循環している。無論、一時期の勢いはないし、今後も逓減の傾向にはあるかも知れない。しかし長年クリエイターを育ててきた実績やノウハウはその土壌になりうる一番のメリットだ。また適度に値段が下がった深夜枠などは、視聴率にとらわれすぎることなくそうしたクリエーターの育成場所になりうるのではないだろうか?
「ドラマのTBS」には、是非とも開局60周年の記念作品「ヤマト」で得た収益を、是非そういう用途に回す英断を見せて欲しい。そういう動きがあってこそ、次の60年の活路が見いだされるのではないか?
逆に単に浮かれてこの成功が一時しのぎに終わるのであれば、『日本のコンテンツの滅亡まで、あと○○年・・・』そう長い時間は残されていないかも知れない。
Redeyes
PS;蛇足にはなるが、それにしてもこの映画のPRサイトは、本当にひどいデキだ。http://yamato-movie.net/top.html
なんなんだこれは!いまどきこんなに古くさくてシロウトっぽいサイト作る人も少ないだろうに。この業界のネット音痴度合いが露呈している。
海外の映画サイトを見れば分かるだろうに。この手のサイトにヘタに凝ることはないのだ。
PS2;加えて是非やるべきだと思ったのは、映画のエンドロールが終わったあと、「この映画の感想を、是非ネタバレなしでつぶやいてください!公式ハッシュタグは #sbyamato です」の一言をいれること。どうだろう?かなりプロモーション効果が上がると思うのだが・・・。
PS3:ワープ中は、妊娠しやすいのか・・・。大人になって初めて知った。w
以上。
